渋谷

若者のデモの聖地、渋谷。

最近は何かと賑わっている。
Facebookなどの実名型SNSでもニュースとリンクして自分の意見をおっしゃる方もいる。

私は思う。
異なる意見を出すだけで満足している人間がいやしないだろうか。


今も昔も与党が出した法案にとりあえず、反対する野党がいるわけだ。
具体的な解決案がないまま、批判する。

勿論、そのことを指摘する人間はこれまでたくさんいたろう。
それから学んでいる人はいるのだろうか。

"デモ=参政"ということにはなっていないだろうか。

確かに世論を汲み取る政治は大事だ。
それがなくなれば民主制とはなんぞや、という事態に陥るに違いない。
ただ参政権がある日本に生きてるのにそれを行使しないでデモに固執しすぎてはいないか。

選挙でもないのに大音響で繁華街を右往左往する左翼右翼と呼ばれる人たち。 
参政権を持たざる未成年者のデモ。

なぜ、投票率が下がるのか。

なぜ、デモは増えるのか。

デモをしなければ政治は変わらないのか。
意見を述べるだけでそのことに関する取って代わるような革新的な案はないのか。

それすらないのにその案はなくせ、はないだろう。

安保はダメ
原子炉はダメ

なぜ、その法案はできたのか
なぜ、憲法改正はいけないのか
なぜ、その原子炉はできたのか
なぜ、原子炉の事故が起きたのか

利益を追求したゆえに先の大戦は起きた
発展を優先したから原子炉もできた
個々の思想を世界の中心として考えたからテロは起きてる

デモをしてる人は個々の意見であるものを勝手に世論に置き換えてはいやしないか

何が正しいなんてはっきり決められない。

戦争する正義もあれば、戦争をしない正義もある世界だ。
多くの電気の供給することを幸福とするか、発電所の事故で家を失わないことを幸福とするのか。

私たち国民が何を優先してきたのか。
これまでもそれを優先していくのか。
それとも世界の流れで変遷させていくのか。

利益を追求して、住む場所を失う人間があってはならない
戦争で人の命を奪うことはいけない
そんなことは誰だって同じ意見だ。
戦争で死にたくないし、家も失いたくない。
でも電気がないのは嫌だし、愛国心から自分の国が他国から何かされるのはいやだ。

一つ確かに言えるのは民主的政治望んでいるのが国民の多数だということだ。
その多数の中で淘汰されていく少数があって然るべきだと思わなくてはいけない。

個々の意見を行使することが民主政治ではないと思うのだ。

前の話にもどる。
私は政治家が自分の思うように動いてくれなかったから駄々をこねてるようにデモをしてるようにしか見えない。
まるでおやつを買ってもらえなかったスーパーの子供のように感じる。社会は自分を中心に回らない。

私の結論
意見は言うべき。
そして、淘汰されるべき。
淘汰されたことを受容するべき。