仲違いの次
仲違いをしたあと、お互いに連絡すら取り合わなくなる。
そのあとで本当に気心の知れた友であったなら寂しくなったり、辛くなったりすることがあるのが普通なんだけれども、稀にそういうことがない人がいる。
そういった人は大した仲じゃなかったのだと、私は割り切るようにした。
精神衛生上、とても大切な作業ではあるけれど、それができるようになってしまってから、友と呼べる人が少なくなった。
今はそれがただただ、寂しい。
嫌な関係
嫌な関係になったものだ。
上京したての心細いときに出会って、家族ぐるみで仲良くしてくれて、もう四年近く付き合いがある人がいる。
その人に去年から仕事を手伝ってくれと頼まれて素直に嬉しかった。信用されてるんだと思ったし、私なんかが力になれるという自信にも繋がった。
でもその人を通して、お仕事を通して出会う人たちと私がうまくいかないし、良かれと手伝ったのに「あいつ(私)がいていいことあった?」とその人が責められていたり、その人が私を庇っていたり、とても居心地が悪い。
寧ろ、何故私がそんなこと言われないといけないのか理不尽だと思っていたりもする。
自分の中では働いてる知り合いの人達の誰よりも汚れ仕事をしているのに評価されていなくて、足手まといとすら言われる。
そして、少しでも自分らしい評価される仕事をしたいと別のことをやり始めたら、手伝ってくれと今度いつシフトを入れるのかと。
私にとって四年来の頼れる友人の1人が私の人生の足手まといにしか感じなくなった。
周りはその人との友人関係をヒッチャカメッチャカにしてくる。男女だから誤解してる節があるのかもしれないが、純粋に友人としてその人の家族もひっくるめて好きなのに、下世話な軽口を叩いてくるし、その人の周りは私を友人としてみてくれない。
周りの環境でその人を嫌いになっていくし、そんなことで嫌いになっていく自分も嫌い。
なんで、そのままで平行した関係を継続していけないの。
18の頃に出会ったときには子供扱いされた。
とても心地よかったのだ。それでもおとな扱いされたくて背伸びをしてた。
今となっては、今まさに自分が大人になって壊れていく関係が怖くて、おとな扱いされたくないとすら思う。責任も負いたくない、あまやかされたい、心配されたい。
みんな10代に望んだおとな扱いをしてるだけだと思うのに、私は冷たく突き放されている気がする。
考える理想のおとなにはずっとなれそうにない。
クリスマス
メリークリスマス。
日本の慣例に沿わないクリスマスの過ごし方をしているんだけど、もしかしたら、恋人同士で過ごさないことをさみしがるのもまた日本の慣例に沿ったクリスマスなのかもしれないね。
下心と強かさ
おっぱい募金を批判してくる声が巷でボチボチ聞こえてくる。
ご存知かとは思うが、おっぱい募金はHIVの啓蒙運動の為に女性が男性におっぱいを揉ませて、募金を集うものだ。
よく批判するのは女性が多いのだが、別に私はそれについて気持ちが悪いとか思ったことはない。
おっぱいを男性に揉ませる当事者たちはビジネスでやっている。純粋なボランティアじゃない。莫大な広告費を省ける絶好のチャンスなのだ。
でも、HIVの啓蒙運動ということは大々的に銘打ってやっていることであるし、その人たちやっている募金ビジネスのおこぼれは私たちにも少なからずあるのだ。
そういうのも募金に協力している彼女たちは性風俗産業に携わる人たちであってそういうものに対しての不安が少なからずあるのだろう。
一方で、携わらない男性女性はひどく無知だし、そんな病気とは無縁だと思っている。むしろ、携わる人間であっても無縁だと思っているのかもしれない。
年々、HIV感染者が増えていく現状でまだそんな意識が抜けないのだ。
それが性風俗産業の一線で活躍されている彼女たちが率先して参加することによって身近に感じることができるだろう、特に男性は。
一度はモニター越しの彼女たちと自分も性行為をしたいと思ったことだろう。もしくは、彼女たちとの擬似的性行為を楽しんだかもしれない。
私はそんなもんでいいと思っている。
動機は不純だろうがなんだろうが、そんなものでいい。
募金は参加すること自体に意味があって、経緯は重要じゃない。
その募金に至らしめることが彼女たちにしかできない方法であって、かつ話題性があったが為に批判されてしまったし、私もそれについてブログに書いている。
よく慈善事業では、できることをやろうとか言っている。
彼女たちは彼女たちができることをやったのだ。
男性もそうだ。
おっぱいを揉むことで大体1000円の募金ができるのだ。
気持ちが悪いという言葉を使うのは募金をした人間にも募金させるために参加した人間にも非常に不名誉だ。
批判をしている人はなんの見返りもなくHIVの啓蒙運動に1000円以上の募金をはたけるのか?
それをやってから少しだけ考えて欲しいと思う。
境遇
人それぞれの境遇がある。
私はそれが生まれながらながらものなのか、それとも自分が作ったものなのか二つはあると思ってる。
10代のころは自分が恵まれないと、こんな不幸があるのかということを軸に生きてきた。
いかに不幸に見舞われていて、その逆境を乗り越える自分に酔いしれた。
そもそも逆境なんてなかったんだけど、生まれながらの不幸を呪ってた。
やれ周りの家族は円満だとか、その家族と一緒に住みながら大学に通えるから羨ましいとか、裕福だとか。
母が自身の恵まれない不幸を話してくるのがすごく嫌いだったはずなのに、私はそれをやっていた。
今は思う。
もうやめよう。
言わずもがな、みんなにその感じは伝わる。
きっと周りみんな、それは嫌だと思う。
私もやめよ。
気づけば、22歳になるところだ。
生まれながらのどうしようもない事実を呪いながら生きていくのは自分の境遇を悪い方へとみずから導いていく事にほかならないと思うから。
みんな同じ意見
誰かがこれは異常だという、間違っているという。
それに対して、お前が異常だとか、お前こそが間違えだとか多数派が乗っかる。
アレだけ少数に対してこだわりのある人間たちは少数の中から生まれた少数を大切にしない。
同性愛が異常だという意見もそれを間違っていると意見に対して撤回を求める声も少数を大切たしない人間だということだ。
もう、独裁でもいいんじゃないかと。
選挙での一票の格差を議論している場合ではないよね。
でも、多数は大切。
そのための少数の犠牲はしょうがない。
そうなんだけどさ。
少数がいないとつまらない世の中だと思う。
面白い世界だなぁ。
同性愛は異常ヤジ事件から